第31話 戻らない時間part1







 それは、私の不注意が招いた惨事だった。

「――危ないッ!」
「え――?」

 それまでの会話から一変して突然声を荒げる涼くんに、私は驚きながらも彼の言った言葉の意味が理解出来なかった。ただ間の抜けた声を漏らし、棒立ちで涼くんを見つめる。
 すると、みるみる彼の表情が強張り、焦燥が滲み出てくるのが分かった。
 涼くんのあまりの豹変っぷりに首を傾げる私だったけど、その瞬間。彼は私の元へと駆け寄って来ていて、その勢いのまま私を突き飛ばしていた。

「っ……いたた……」

 あまりに突然な出来事に、ますます状況の理解出来ない私は尻もちをつきながら涼くんの方へと視線を向ける。

 直後。
 
 路面とタイヤの擦れる甲高い音とブレーキ音が辺りに鳴り響いた。それも、そこは私がさっきまで立っていた所。
 周囲に響く悲鳴。私はその中で、自分自身の目を疑わずにはいられなかった。

「嘘っ……嫌……涼、くん……?」

 ……認めたくなかった。こんな光景を受け入れられる訳が無かった。

 頭から血を流し、虚ろな目で倒れ伏す涼くんの姿を――。

 時折ゆっくりと体を動かし、その度に苦痛に歪む涼くんの表情が堪らなく痛々しかった。
 私はそんな涼くんの元へ慌てて駆け寄ったけど、どうして良いのかも分からなくて、ただ涙を堪えながらおろおろとする事しか出来なかった。

「だ、だいじょ、ぶ、か……?」

 不安げな表情を浮かべる涼くんが、心の底から私を心配してくれているのが分かった。こんなに大きな傷を負っているのに、どうして彼は私の心配をしてくれるのだろうか。
 強く胸を締めつけられた。助けてあげたい――でも、目の前の涼くんに何もしてあげられない無力感が私を苛み、苦しめた。

「うん、大丈夫だよ……? でも……でも涼くんが……!」

 幸い、私は涼くんのお陰でかすり傷一つ無かった。でも、それはあまりに大きな犠牲の上にあって……。
 涙が溢れそうだった。だけど、この涙を流してしまえばきっと涼くんは心配してしまう――そう思って懸命に堪えた。
 それは確信。彼という人はそういう優しさと思いやりを持ち合わせた素敵な人。だから私もそんな彼に――。

「だ、いじょう、ぶい」

 ――ほら、今でもこうして何でもないかのように振る舞って……。

 ピースサインをつくってニカッと笑う涼くんのその笑顔が本当に輝いて見えた。それに釣られて私も思わず笑ってしまう。
 彼のその笑顔を見ていると、本当に大丈夫なのではないのだろうか、という気さえした。

 だけど――。

「涼、くん……? 嫌、嫌……嫌ぁぁぁーーーっ!」

 そっと目を瞑った涼くんが、その後目を開く事は無かった。






「おい! 涼は!?」

 勢い良く病室へと入って来たのは、普段の姿からはかけ離れて動揺する藍田くんだった。
 その後、それに続くかのように男子バスケ部の人達と、少し遅れて佳苗や凛ちゃん達数人の女子バスケ部員がやって来た。

「お医者さんが言うには、何をしても無駄だろうって……」
「っ! ちょっと、涼! 起きなさいよ!」

 病室のベットで、様々な医療機器に囲まれながら頭を包帯でぐるぐる巻きにされて横たわる涼くんに駆け寄って声を荒げる佳苗に、私はそっと肩に手を置いた。

「……それと、今は静かに寝かせてあげた方が良いって……」

 少し青ざめた顔で力無く座り込む佳苗。声も出ないみたいだった。 

「マジかよ……桃さん、加住はどういう状態なの?」
「……詳しくは教えてもらえなかったの。たぶん、まずは涼くんの身内の人に話してからだと思う」

 珍しく柏木くんにも元気が無かった。よく見ると、少し震えているような気もする。
 凛ちゃんや、この前の先輩。弘田先生や森下さん達も皆、衝撃で言葉を失っていた。
 病室の中に重苦しい空気が立ち込め、しばしその中で口を開く者はいなかった。



「……あの、先生。試合はどうだったんですか?」

 私は依然として重い空気で満たされた病室内で、今日の試合結果が気に掛かった。相手は強豪、白土学園高校。想像もつかないような相手だと涼くんも言っていた。

「あ、えぇ……」

 弘田先生は虚を突かれたみたいだったけど、すぐに我に返って続けた。

「負けちゃいました……かなりの大差でしたよ」

 私は大きく肩を落とす。俯きながらいた藍田くん達も悔しそうな表情をしているのが分かった。
 きっと、試合結果を聞かされたら涼くんも凄く悔しがるんだろかなぁ、なんて思った。彼の悔しがる様子も思い浮かべてみたけど、それ以上に次に向かってひ たむきな姿で努力をしている光景が浮かんだ。練習中も、誰よりも声を出して1番足を動かしているのはマネージャーの私がよく知っている。
 思えば、高校に入学してからすぐ涼くんと再会して、短い間だったけど未だかつて経験した事の無い充実感があった。一緒に勉強して、部活して、行事があって……。そんな、何気ない一時を思い返して思わず笑みが零れてしまう。

「桃……?」
「あ、ごめんね。少し考え事してたら、つい」

 そんな私を見て訝しげな表情をする佳苗だったけど、笑みもそのままに少し照れてしまう。
 まだまだ高校生活は始まったばかり。これからも、彼の近くでそんな充実した毎日を送っていきたい。

「……ちょっとあんた。涼がこんな状態なのに不謹慎だと思わないの?」
「佳苗……?」

 決して戻らない時間の中で、今も眠り続ける涼くんを見て『頑張れ』と心の中で呟いていると、突然佳苗が普段は出さないような低い声で私へと詰め寄って来た。
 少しの驚きと共に、私は僅かに仰け反る。

「ど、どうしたの?」
「……どうしたもこうしたもないわよ。何で……何でこんな時にあんたはへらへらと笑ってられるのよ!?」
「ちょっと、滝下さん止めて下さい!」

 もの凄い剣幕で私の胸倉を掴む佳苗に慌てて弘田先生が止めに入ろうとしたけど、佳苗は一向に止める気配が無かった。

 中学で知り合った私と佳苗。あまり積極的に物事に取り組む事が得意ではなかった私は、誰とでも分け隔て仲良くなれて友人も多く、課外活動にも率先して参 加出来る佳苗が羨ましかった。憧れ。初めはそんな感情に近かった。知り合ってからも1番の友人となった私達は、喧嘩なんてした事も無かった。

 佳苗が怒るのも分かる。この状況で笑みを浮かべる私も悪いとは思う。だけど、それ以上に私は佳苗へ対して腹が立った。佳苗こそ何も分かっていない、と。

「……どうしてそんな事が言えるの?」
「あんたが空気も読めずにいるのが腹立つのよ! 本当にこの状況分かってんの!?」
「佳苗こそ分かってるの!? 涼くんは私を庇ってこんな怪我をしちゃったんだよ!? 本当なら私がここで寝てたはずなのに……私が……っ!」

 溢れ出す涙を止まる事が出来なかった。

 救急車に乗って涼くんと一緒に病院へ来たのは私。
 お医者さんの沈痛な面持ちを目の当たりにしたのも私。
 そして、そもそもの原因を作ったのも私。

 なのに状況が分かっていないと言われて本当に頭にきた。病院に着いた頃は常に最悪の事態が脳裏を掠め、涙が止まらなかった。
 だけど、それではいけないと思ったのだ。涼くんはきっと元気になってくれる。逆を言えば、そう信じていないと落ち着いていられなかった。だからこそ、こ れからの事を考えていると笑みも零れた。彼の存在は日を追うごとに大きくなり、私は彼に夢中になっている。止まらない。彼に万が一の事あれば、私はどう なってしまうのか想像もつかない。

「……だったら。だったらあんたがもっと涼の事を気遣ってあげなさいよ!」
「少しでも良い方向を見据えようとして何が悪いの!?」

 一歩も退かない佳苗に私もますます熱くなっていく。こんなに大きな声で怒りを露わにするのは生まれて初めてだった。
 折れたくなかった。ここで私が退いてしまえば私の想いが薄っぺらいものに成り下がってしまいそうで恐かったのだ。
 私も負けじと佳苗の胸倉を掴み返しさらに大きく息を吸い込んで喰って掛かろうとした。――が。

「あんたはただ現実から目を背けてるだけでしょ!? 屁理屈ばっかり言って……!」
「っ! それは……! でも、だからって私が心配しているのに変わりない! 私だって――」
「――2人とも良い加減にしなさいっ!」

 ますますヒートアップする私と佳苗の間に声を荒げながら割って入ってきたのは弘田先生だった。
 お互いに肩で息をしながら相手を睨みつける私達。

「あなた達はここをどこだと思っているんですか。2人がここでいがみ合ってもどうにもならないでしょう?」

 窘めるようにそう言い、私と佳苗を交互に見る弘田先生に怒気は無かった。
 別に佳苗が憎い訳じゃない。ただ、私の想いを誤解していたのが我慢ならなかったのだ。
 本当に、涼くんの事が心配なのは確か。だけど、どうして佳苗はそれを理解してくれなかったのだろうか。
 未だに怒りは収まる気配が無かったけど、徐々に沈静化していくのを感じ取る事は出来た。私達は無言のまま弘田先生に向けて小さく頷き、気まずさからか、その場には再度沈黙が立ち込め始めた。



 沈黙はついつい物思いに耽ってしまう。時間が経つにつれて怒りは収束を見せたけど、依然としてベッドの上で眠り続ける涼くんを見ているのが辛かった。
 私が招いた惨事。この現実から目を背けてはいけない。でも、だからといってこの状況を平静なままで受け入れられるはずもない。
 蘇るのは、今朝涼くんが寝坊をして、大慌てで試合会場へと向かった事。試合開始には間に合うと分かってからはホッと胸を撫で下ろし、他愛のない会話をしながら会場へと向かった。
 思えば、あの時に交わした言葉が最後だったのだ。事故に遭ってからも彼は私を気遣うような言葉ばかり。
 私は悔しかった。自分の所為で好きな人が痛苦を抱える事になるのが堪らなく辛い。
 極力考えないようにしていた最悪の事態がいつの間にか頭を過り、無自覚に涙が溢れていた。

「涼くん……」

 誰にも聞こえないよう、ポツリと彼の名前を呼んでみる。返答が無いと分かりつつも、その後にもう1度。
 もう一度彼の笑顔が、声が、聞きたい。静かに眠る涼くんの傍らで、私はただ奇跡を願う事しか出来なかった。

「涼、くん……」

 弱々しく紡ぐ彼の名前。だけど、それを掻き消すかのように病室の扉が叩かれた。

「どうぞ」

 短く応える弘田先生と、それに合わせて入室して来たのは涼くんを診た女性のお医者さんだった。注がれる視線に軽く会釈し、病室内を見渡すお医者さん。沈痛な面持ちは相変わらずだけど、開口一番に出た言葉に私達は戸惑った。

「……ミスったな」

 何を指しているのか分からず、当然のごとく全員が疑問符を浮かべる。妙な空気の中で頭を掻きながら佇むお医者さんは、居心地が悪そうに続けた。

「あー……皆さんは患者のお知り合いで?」
「あ、はい。僕は加住くんの担任兼部活顧問で弘田と申します。……あの、それで加住くんの容態はどうなんでしょうか?」
「あー、先生でしたか。いや、実はですね……大変申し上げ辛いのですが――」 

 その後に続く言葉を遮って、反射的に耳を塞ぐ自分がいた。聞きたくない。聞かなければならないはずなのに、体が勝手に動いてしまったのだ。
 嫌な汗と共に鼓動が異様に速まるを感じつつ、思いの外あっさりと涼くんの容態を告げようとするお医者さんを少し不思議に思ったけど、緊張感の高まった病室内でその事を口にする者は誰1人いなかった。

 しかし。

 それ以上をお医者さんが口にする事は無かった。静寂の中で皆が息を呑んで待っていたけど、お医者さんは気にする様子もなくおもむろに涼くんの元へと歩み寄ったのだ。
 私と佳苗は思わず顔を見合わせた。理解し難いお医者さんの行動をただ見守るだけである。

「……なるほど、やはりそれ相応の手段でなければ目覚めは厳しいか。では――」

 そして、私は自分の目を疑った。

「――チェストォォォ!」


「――ギャャャャャ! ――い、痛ぇぇぇ!?」


「え……」
「は……」
「涼……?」

 一瞬、私はその場で固まってしまった。
 お医者さんが涼くんの元へ歩み寄ったかと思うと、何やらぶつぶつ呟いた後、突然スネ目掛けて拳を繰り出したのだ。
 私は目の前の光景に思考が追いつかなくて、ただ呆然とする。
 スネを押さえながら凄い勢いで起き上がる涼くんの姿は、私が心の底から待ち望んでいたモノだった。叶わないと思っていた祈りが通じて、本当に奇跡が起こったのだと思った。

 ……だけど、本当にこれは現実なのだろうか?

 分かり切っていた。あれだけの重傷の中で、普通に考えてそんなに簡単に目覚めるはずがない。
 それは悲しい現実に直面して事態を受け止めきれなくなってしまった私の作り出した幻で、もう1度彼の元気な姿を見たいと望んでしまったがために空想世界にでも逃避してしまったのではないのかとさえ思った。

「な、何!? 何事!?」

 でも。

「おい、涼! 無事なのか!?」
「加住くん!? 体は!?」
「加住……てめぇ、大丈夫なのか!?」
「無事じゃないって! す、スネが! 俺の弁慶が!」

 これは夢でも、幻なんかでもない。

「カスミン……ここは病院よ」
「あんた、車にはねられたのよ!?」
「やっぱり弁慶折れたの!? というか、俺は弁慶を折る目的で病院にいたのか!? 準備良いなオイ! 事故関係無いし!」

 それは、私が願った何気ない日常の再開。

「涼くん……!」
「おぉ!? 桃ちゃん、無事か!?」

 彼の手を取れば、その温もりが伝わってくる。

「…………」
「……心配かけちゃったみたいだな」

 これが現実だと実感出来る事がこんなにも嬉しい。

「……うん」
「ハハ、ごめん」

 そして、何より――

「……でも、桃ちゃんが無事で良かった」

 ――涼くんが無事で良かった。






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