第30話 インハイ予選







  ピリリリ―― ピリリリ――

 毎朝聞き慣れた目覚ましとはまた違った電子音。眠りの中にいた俺の意識が微かに反応して枕元を弄る。
 電子音と共に、振動が伝わって来るこれは……

『王子様』

 手にした携帯のディスプレイにはそう表示されていた。
 数秒の間、未だ覚醒しきっていない頭でボーっとディスプレイを見つめる。

 ピリリリ―― ピリリリ――

「……はい」

 寝起きのせいか、普段よりも僅かに低い声が出る。しかし、別に不機嫌という訳でもない。どちらかというと、朝でもそれなりに元気さを出せるのが俺という生き物である。

「おい、まさかとは思うが、寝起きか……?」
「うん? あぁ、そうだ」

 俺が答えると、電話越しに大きな溜息が聞こえてきた。何をそんなに呆れているのか理解出来なかった俺は、小さく首を傾げる。

「……どうしてそんなに余裕でいられる? もう9時前なのだが」
「いや、だって今日は土曜だし寝ててもバチは当たらないだろ」

 さらに大きな溜息が聞こえた。休日の朝っぱらから人をおちょくるこいつは一体何がしたいのか意味不明である。そんなに俺という存在が恋しいのだろうか。

「ほほう、確かに今日は土曜だ。しかし、ただの休日という訳でもあるまい。念の為確認するが、今日が何の日か本気で忘れているのか? それとも周囲の人間に迷惑を掛けることに喜びを感じる性質なのか?」
「今日?」

 俺達が友達になった記念日だ! とか言わないだろうな? お前の口からそんな台詞を聞いた日には、空から槍が降って来ても文句は言えない。
 それと、周囲の人間に迷惑を掛ける云々のところがさっぱり分からない。いきなりそんな事を言われてもこの顔を整形するにはお金も時間も足りないぞ。

「俺達が友達になった記念日か?」
「……やはりお前の脳はニワトリ並みか」
「っ! ちょ、失礼だろう!?」

 確かにお手軽な食材としてニワトリさんの存在は偉大だが、それとこれとは話が別だ。俺も一応は人間。もし目の前に修がいたらデコピンの嵐をお見舞いしてやるほど失礼な比較だが、生憎と電話である。

「覚えてろよ! デコピンでクリリンみたいにしてやるからな!」
「果てしなく謎だ」

 この内容の無い会話に無駄な時間を割いたと後悔しながら、携帯の電源ボタンに親指を掛けた。

「それじゃあな。切るぞ」
「待て馬鹿者。やや話が逸れてしまったが、まさか本気で今日の試合に来ないつもりか?」
「誰が馬鹿――へ?」

 修のあまりに衝撃的な一言に、ついつい間抜けな声を漏らしてしまう俺。完璧に表情が引き攣ると同時に、忘れていた記憶が蘇る。

 本日、9時30分から県立体育館で栄稜高校対白土学園高校の試合があるのだ。つまり、インターハイ予選の初戦。俺はたった今、遅刻の危機に瀕しているのである。
 ようやくその重大な事実を思い出した俺は、言葉にならない声を漏らしながら慌てふためいた。その焦りっぷりに、電話の向こうでは少しばかり笑い声も聞こえる。
 なぜ忘れていたのかは不明である。が、俺の脳は決してニワトリに引けを取らないと判明してしまった。

「お、おい、修ぅ! 助けてくれ!」
「フフ、頑張れよ。お前がワールドレコード並みの走りを見せれば何とかなるかもしれん」
「無理! 足が千切れるぐらい走っても無理! 俺の鈍足さを知ってるだろ!?」
「ああ、それともう1つ。俺達は先に学校を出たが、入れ違いにならないよう、高西さんには学校で待機してもらっている。合流してから来いよ。――さらばだ」
「え、ちょ、おい! 学校まで行ったら2度手間じゃないか! もしもし、聞いてるのか!?」

 プーップーップーッ――

「き、切りやがった……」

 桃ちゃんを迎えに行く為に家から学校まで全速力で走って20分。そして、その中間地点にある鈴内駅までは学校から10分。さらに県立体育館までは電車で20分。今はおおよそ8時50分――

「アウトォォォ! 遅刻決定じゃボケェェェ!」 

 誰もいない家で叫ぶ俺。着く頃には既に試合が開始されている時間帯である。不味い。これは不味過ぎるぞ。
 とにかく大急ぎで着替えを済ませて出発の準備を整える。こういう時に限って中々準備がはかどらないのは焦り過ぎだからなのだろうか。1分、1秒が惜しまれる状況下で、思い当たる荷物を片っ端から鞄に詰めていく。

「よし、こんなもんだろ。 ――待ってろよ桃ちゃん!」






 大切な試合前にこれだけ全力疾走をして大丈夫なのかという疑問を胸に抱きながらも、遅れてしまえば本末転倒だと気付いて走り続ける。

「クソ、こんな時に自転車があれば楽なのに!」

 俺の自転車は昨年の夏休みに大破した。琵琶湖を目指して豪雨に遭ったあの時に、慌てて自宅に引き返す道中で激しく転倒し、慣性で自転車が道路へするするっと滑って行ってタイミング良く走って来た大型トラックに踏み潰されたのだ。さらば我が脚……と、そっと心の中で別れを告げてそのまま逃げた。ご遺体は放置だ。



 それから走り続ける事およそ10分。駅を素通りし、学校へと向かう中でふと、遠目に見慣れた姿が見えて足を止めた。

「あれは……」
「お〜い! 涼く〜ん!」
「桃ちゃん?」

 向こうも俺の姿に気付いたらしく、軽く手を振りながらこちらへ駆け寄って来る桃ちゃんを見て少し安堵する。

「おぉ、やっぱり桃ちゃんか! でも、何でここまで?」
「えっと、涼くんの家からだと、学校よりも駅で待ってた方が早いかなって思って」
「ナイスだ桃ちゃん!」

 少し息を切らす桃ちゃんの好判断に、どうやら救われたようである。これで20分は短縮出来るはずだ。このまま上手くいけば試合開始に間に合うかもしれない。最大限のお礼を桃ちゃんに言い、俺達はそのまま駅に入った。



 ここで嬉しい誤算があった。鈴内駅から県立体育館のある原崎駅までを20分と読んでいたのだが、実際はそこまで掛からなかった。しかも、県立体育館は駅を出た目と鼻の先。準備諸々を考えれば遅刻に変わりはないが、それでも試合にはどうやら間に合いそうである。
 心にゆとりのできた俺と桃ちゃんは、歩いて目的地を目指していた。

「案外大丈夫そうだな」
「うん、そうだね」

 暢気に会話を楽しみながら歩を進め、時折白土の制服を来た生徒が視界に入って自分の表情が強張った。
 彼らは応援にやって来たのだろうか。部員でもないのにこの休日に制服を来ているあたり、応援団か何かなのかもしれない。
 そんな彼らを見て、緊張感の高まる自分を感じた。もうすぐ始まる。昨日のミーティングが終わった後、望くん先生はこっそりと俺に期待していると言っていた。もちろん、それは全員に掛けている言葉なのだろうが、それでもやっぱり嬉しかった。中学ではありえない話だ。中学時代の顧問にとって俺は空気のような存在だったらしく、部員の1人として数えられていたかどうかも怪しい。そんな俺に、嘘でも『期待している』と言ってくれる望くん先生にはやっぱり応えたい。今日は、与えられた仕事を一生懸命こなしたいと思う。

「緊張してる?」
「うぇ? あ、うん」

 どうやら露骨に表情に出ていたらしく、心配そうにこちらを覗き込む桃ちゃんと目が合った。

「そっか。……あのね、涼くん。こんな時に何だけど……ちょっといい?」
「ん?」

 少し微笑んだ後、一変させて改まった真剣な表情を浮かべる桃ちゃんの問い掛けに、何事かと短く返す。

「この前のことなんだけどね……」
「この前……?」

 沈んだ表情の中にどこか決意に満ちた色を見せる桃ちゃんに、ついつい身構えてしまう。この後に待ち受ける展開が、あまり良いものではないと直感的にそう思った。だが、あくまで直感は直感。思い過ごしだろうと、簡単な自己解決に至った。ゴクリと息を呑む。

「……私、涼くんのこと、全然嫌じゃないから!」
「…………」

 ……いきなりこの人は何を言い出すんだろう、というのが俺の率直な感想だ。それに、その言葉の真意が分からない。唐突にそんな事を言われて反応に困る俺だが、もしそのままの意味ならばどうやら嫌われていないらしい。

「そ、そうか。嬉しいな」

 どう答えて良いか分からなかった俺は、それなりに素直な気持ちを口にしてみた。桃ちゃんが俺にどんな言葉を期待しているかは知らないが、問題は無いはずだ。
 だが、それが桃ちゃんにとって満足のいく答えではなかったのか、それとも腑に落ちない俺の様子を悟ったのか。事の詳細を説明してくれた。

「あのね、この前先輩に『涼くんの彼女?』って聞かれたことがあったでしょ? あの時は咄嗟のことで気が動転しちゃって……」

 あぁ、なるほど。そういう事ね。それを聞いてようやく得心がいった。脊髄反射で俺を拒絶してしまったのは誤解だと、つまりはそういう事だろう。だからさっき『嫌じゃない』と言ったんだな。
 正直、あれは笑って流せる話だと思ってたけど……かなり桃ちゃんは真面目な人間らしい。しかし、事の発端は七井さんだ。あの人がいらん事を言わなければそもそもこんな事にならなかった訳で。……よし、先輩だけどデコピン決定。クリリン2号の誕生だ。

「あぁ、あれね。大丈夫! 割と慣れてるから気にしなくていいぞ」

 自分で言ってて悲しくなるが、イジメを克服してからも俺は女子から恐ろしく人気が無かった。友達としての関係は良好だったが、所詮はそこまで。男らしくない+王子様の隣にいた所為でより際立つ情けない容姿。そして、青春真っ盛りの中学時代に面と向かってこんな事を言われた。

『えぇー、加住くん? 友達としてはいいけど、それ以上は何か無理』

 おい“何か”って何だよ!? せめてちゃんとした理由ぐらい挙げやがれ! というか、お前らみたいな奴らはこっちから願い下げだけどな! 畜生!
 これも踏まえて、俺は数々のそういった発言を浴びる事で免疫ができた。迷惑な事に、『加住なら本音言っても傷付かないんじゃない?』的な空気が蔓延していたのだ。まったく、あいつらは俺を何だと思っていたのだろうか。まぁ、笑い飛ばせるだけの器の大きさを俺が秘めているという事なのだろうが。フフ。

「でも――」
「大丈夫大丈夫。今さら嫌われてる云々言われても動じないぞ、俺は。――お、今の内に渡ろう」

 桃ちゃんの言葉を遮って、信号の点滅し始めた横断歩道を足早に渡り始める。
 本当に気にしなくても大丈夫なのだが、桃ちゃんの言葉をやや投げやりに遮ってしまった自分に少なからず違和感を感じた。桃ちゃんは懸命にこの前の事を撤回しようとしてくれているのだが、なぜかそれを聞きたくなかった。
 今までのように軽く流せば済む話なのだ。現に、桃ちゃんに言われるまでこの前の事も忘れていた。しかし、今日またその話になって桃ちゃんが弁明しようとすると僅かに胸が痛む。これが一体何なのかは分からないが、これ以上不可解な胸の痛みが続くならそれを止めたいとも思う。
 桃ちゃんと距離を取る為か、自然と歩調が速くなる。

「涼くん待って!」

 駆け足でやって来る桃ちゃんに呼ばれて振り返る。が、その時。ドクリと胸の鼓動が高鳴り、不意に嫌な予感がした。
 振り返った先で、何かを言いたそうに悲しげな表情を浮かべる桃ちゃん。そして、その口を開いた時だった。



「……本当に誤解して欲しくないの。だってね、あの――」
「――危ないッ!」
「え――?」

 直後。路面とタイヤの擦れる甲高い音とブレーキ音。鈍い音と鋭い衝撃が俺の体を襲った。
 周囲から朧気に聞こえる悲鳴。それを、俺は地に伏しながら他人事のように聞いていた。

「…………」
「嘘っ……嫌……涼、くん……?」

 耳に届くのは、駆け寄って来た桃ちゃんの泣きそうな声。それを聞いて一言、“大丈夫”と言って安心させてあげたかったのだが、口が上手く動かなかった。声にならない声を漏らし、倒れ伏す俺の頭の周りからは何か温かい液体が広がっていた。激痛の走る自由の利かない体は、とても自分のモノとは思えなかった。どうにも意識がはっきりしない中で、何とか少しずつ状況を呑み込もとするも、上手く頭が働かない。

「だ、だいじょ、ぶ、か……?」

 言葉に出来たのはそれだけだった。まともな発音かどうかも怪しいその声に、より桃ちゃんの表情が曇った。
 それでも、どうやら桃ちゃんは無事らしい。今でこそ晴れない表情をしているが、外傷は無いようである。

「うん、大丈夫だよ……? でも……でも涼くんが……!」

 それを聞いて俺はホッと胸を撫で下ろした。一安心すると、急激に眠くなった。さっき起きたばかりなのに不思議なもんだと思いながら、軽く寝返りでも打とうとしたが、やっぱり体は上手く動かない上に、再度激痛が走った。
 瞳に涙を溜める桃ちゃんが、俺の目にはすごく儚く映った。遠退く意識の中で最後に何とか懸命に言葉を紡ぐ。

「だ、いじょう、ぶい」

 ピースサインをつくり、その後にニカッと笑って見せる。我ながら寒い事を言うなーと、少し思ったけど、それに釣られて桃ちゃんも微笑んでくれた。
 それを見てどこか安心した俺は、迫る異常な眠気に抗えぬまま俺の意識は暗い淵へと落ちていった。

「涼、くん……? 嫌、嫌……嫌ぁぁぁーーーっ!」

 そしてそれは同時に、初めてのインターハイ予選が幕を閉じた瞬間でもあった――。





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