プロローグ





 息も絶え絶えに走り続け、背後から舌舐めずりに追い掛けて来る男達に少女は悪寒を感じずには居られなかった。
 それは、とても“逃げている”という実感の湧くものではなかったのだ。
 懸命に足を動かし続ける少女であったが、あの男達がその気になればこの距離も瞬く間に詰められてしまうであろうことは明白だった。
 全員が屈強で、その手には得物。これだけ走ったというのに、未だ息の一つも切らしていないのだ。少女は己の体力の無さに嘆きながら、同時にその迂闊さを呪った。



 事の発端は、少女の住んでいる村に盗賊が襲撃して来たことからだった。
 隣国から逃げのびた敗残兵が盗賊と化してこの近辺を根城にしているという噂はかねてからあったが、実際には襲撃されることは無いと楽観的に捉える村民が大半だった。
 というのも、少女の住むメイネナン村は国境際で極小の村。村人の数は二十にも満たない程で、他に類を見ない小ささだった。近隣にはメイネナンよりもニ回り以上も大きな村があり、所詮は村だがメイネナンよりは遥かに潤っている所もある。

 そんな中、あえてこのメイネナンを狙って来るあたり、盗賊連中には腕が無いと少女は踏んでいた。
 一昨年、魔法学園に入学した彼女は才こそ無かったものの、それを努力で補い懸命に修練し、何とか同年代の生徒と肩を並べるまでに至った。まだ今年三回生になったばかりだが、訓練を受けていない並みの大人二、三人ならば容易に退けることも出来るようになった。
 それは少女に自信と明るい未来を垣間見せたが、結局のところはまだまだ新米以下の魔法使い。魔法学園を卒業していない彼女は、魔法使いとしてのスタートラインにすら立っていないという事実を失念していたのだ。
 だから、盗賊が襲撃して来た際も村の男達よりも先に賊討伐を志願し、討伐のあかつきには颯爽と凱旋でも決めてやろうと息巻いていた。



「はぁ、はぁ……まったく歯が立たないなんて……」

 少女はそう呟かずには居られなかった。逃げる最中に放った魔法は全て躱(かわ)され、無力化され、逆に男達が投擲したナイフが足を掠った。
 いくら盗賊とはいえ、相手は厳しい訓練を耐え抜いた一人前の元兵士。し かも敗残兵である彼等は実戦も経験し、魔法の対処も心得ている。少女が希代の魔法使いなら露知らず、半人前以下の実力でしかない彼女が元兵士に敵う道理は 無かった。ましてや、そんな相手が三人である。自然と少女の胸には諦念が見え隠れしていた。

「ハッハッハ! 頑張るねぇ。いいぜ、もっと逃げろよ!」

 まるで狩りを楽しむが如く狙いを定めて再びナイフを投擲する男の一人。急所は狙わない。たが、外しもしない。投じる度に体力を奪う傷を着実に積み重ね、徐々に弱る様を見て悦に浸る。それが男の楽しみ方だった。

「ッ!」

 脇腹を走る鋭い痛みに少女は顔を歪ませた。

 強者に追われる弱者の末路は一つの例外も無く――死。

 それが少女の頭を過った時、既に足は止まっていた。
 幸い村からは随分と離れ、村人達が逃げ出す時間ぐらいは稼げた筈である。少女はゆっくりと振り返り、自身の拙さを思い知って唇を強く噛んだ。
 迫る死との戦いは、想像を絶する恐怖を抱いていた。途端、それまで何とか堪えていた足は震え出し、やがてその震えた足では立つことも覚束なくなっていた。

「おいおい、座り込んじまったぜ?」
「けッ。もう少し楽しませてくれりゃいいものを……」
「こうなっちまったら仕方ねぇ。終わりだな」

 逃げることを止めた少女に男達の興味は消え失せていた。呆れた表情の中に薄い笑みを浮かべ、座り込む少女を見下す。
 それを少女は体をガタガタと震わせながら縋るような瞳で見つめる。僅かに残る自尊心が命乞いを阻むが、瞳に映る感情だけは少女の気持ちを真に表していた。

「そんな瞳で見つめられても見逃すつもりはねぇ。精々、あの時出しゃばったことを後悔するんだな」

 元より、道徳に反したこの男達さえ居なければこんな事態に陥ることも無かったのだが、少女の中に驕りがあったのもまた、確かだった。
 一歩ずつ少女の元へと歩み寄る男の一人。手にはナイフではなく、止め刺す為に抜かれた剣。
 やがて少女の目の前に立ち止まると、ゆっくりとその剣を振り上げた。

「嫌……」

 ポツリと少女の口から零れたその言葉が男の耳に届くことは無かった。本当に微かな声。だが、それを皮切りに少女の感情は堰を切ったかのように溢れ始めた。

「嫌……まだ――死にたくないッ!」

『……を……んで……』

 その場に少女の声が響く。虚を突かれた男達は僅かに仰け反って隙を作るが、少女自身はそれと同時に耳に届いた聞き慣れぬ声に違和感を感じていた。
 聞き取り辛い程の微かな声ではあったものの、先程聞こえた声は確かに少年のモノだった。少なくとも、この場にいる者の声ではないと少女は確信していた。

「あぁ? そんなこと俺は知らねぇ。あばよ」

 しかし、その少年の声を気にも留めない男の一人は面倒そうにそう吐き捨て、直後に剣を振り下ろしていた。

(最早これまで……)

 少女は心の中で呟き、目を閉じて諦念と共に死を受け入れざるを得なかった。

『オ……を……んで!』

(…………?)

 再び耳に届いたそれは僅かに明瞭なモノになっていた。断片的で意味こそ理解は出来なかったが、何かを訴えかけているであろうことは察することが出来た。
 それに、不鮮明とはいえ確かに少年の声。この場に似つかわしくない筈なのに男達が全く反応しないのも不自然だった。
 少女は少年が何を訴えかけているのか気に掛かり、そっと耳を傾ける。

『オ……を……んで! オレを……んで! ――オレを喚んで!』

 それは、少女の頭の中で直接響く形で紡がれた言葉だった。確かに聞こえた。何処か大声で叫んでいる訳でも、耳元で囁かれた訳でもない。ただ、頭の中で手を差し伸べる少年の姿と声が少女の頭の中へと流れ込んでいた。

 ――彼は間違いなく、自分を救おうとしている。

 死の間際にありながら、少女は一筋の光を垣間見た。理屈ではない。この少年の手を取れば助かる――そんな気がしたのだ。

 そして――。

「ジローーーーっ!」

 刹那。闇を劈(つんざ)く眩しい閃光と共に現れた少年は、颯爽と男の剣を受け止めていた。



 …………枕で。





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